感じる

こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます。法学部法律学科2年の小林羽衣です。

わたしは、9月から現在に至るまで体調不良のため部活動をお休みし、療養生活を送っています。その中で、「感じる」とはどういうことなのか、深く考える機会かありましたので、本日はそのことについて話をさせていただこうと思います。

人は日々生活をする中でいろいろなことを感じています。そしてそれを他者と共有することもあるでしょう。風が冷たいな、とか足が痒いなとか様々です。ですがわたしはこの感じたものを表現する(他者と共有するために)ということに小さな違和感を抱きました。それは感じたものを言語化した時点で、その感じたものは感じたままのものではないということです。人の言語力には限界があります。そんな限界のあるもので「感じた」ものを完璧に表現するのは不可能に近いことなのではないでしょうか。もちろん、必ずしも完璧に表現することが必要だとは思いません。ですが、「ありのままに感じたことを表現してみましょう」などという表現になると、わたしの抱いた違和感はさらに大きくなります。わたしは表現せずに自分の中に留めておくことで初めて本当の意味での「感じる」ということが成立するのではないかと考えています。1人で目をつぶり心を静かにして五感が感じる全ての事柄に目を向ける、それこそが「感じる」ということなのではないかと思うのです。何を感じるかというのは、それまでの人生経験や生活をしてきた環境に大きく影響されると思います。しかし感じるべきものは既にたくさん存在し、そのうちどれだけのものを感じ取れるか、というところに個人差が発生するのだと考えます。

わたしは今まで、他の人よりいろいろなことを感じにくい性格、特性を持っていると思ってきました。ですが最近では、感じにくいのではなく、感じたものを表現することが苦手であったのではないかと思っています。日々の生活にゆとりを持ち、自然の音や景色に目を向けて生活をしていれば、「感じる」ということはより繊細に出来るようになるのではないかと思います。自然が生んだ空気をたくさん吸うことで、人は長けた五感を持ち、多くのことを感じ取れるようになるのではないかと思います。そして、より大きな言語力を持つことによって、人はそれを他人と共有し、形を持った「感じる」を作り上げることができるのではないでしょうか。わたしは、人と、何かが通じ合った時の、掠れあう音が確かに聞こえるような心地よさが好きです。目の前に広がる世界を優しさを持って素直に受け入れること、それこそがわたしの追い求める「感じる」ということの姿なのです。そしてその感じたものこそが、わたしたちの価値観の形成を促しているのではないか、と考えています。今後の学校生活や部活動での会話で、この「感じる」ということを大切にしていきたいと思っています。

拙い文章となってしまいましたが、これで本日のリレー日記を終了させていただきます。最後までご精読いただきありがとうございました。一日でも早く部活動に復帰できるよう療養に専念していこうと思っておりますので、今後とも応援のほど、よろしくお願いいたします。