こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、法学部政治学科 3 年の金子慶汰です。
花粉が飛び始めたこの頃ですがいかがお過ごしでしょうか。
1年の辻岡は鼻水が飛び出てしまうためひねりを控えていると先日話してくれました。くれぐれもご自愛くださいね、ひろむ。
さて、2月半ばにトランポリンは、阪南大学にて3大学合同合宿を行いました。今年も最高にハードで最高に楽しい3日間となりました。その合宿の中での気づきを1つ綴ろうと思います。
それは「考え”すぎ”は呪い」であるということ。
私は1年前から屈身3回宙返りを練習しています。それはもう毎日。体が擦り切れるくらい。ただ、最近はうまくいかないことが多くなりました。
「上にあげなきゃ」
「前を見て入らなきゃ」
「このタイミングで姿勢を潰さなきゃ」
「手を遠くから回さなきゃ」
「頭を残さなきゃ」
「腰を高い位置に引き上げなきゃ」
「飛び上がったらすぐに形を作らなきゃ」
そんなことを考え続け、試行錯誤を繰り返す。どこかに歪みが生じれば、技はうまくかからない。
と、以前は思っていました。
先日の阪南合宿で、苦戦している時にとある選手から
「何も考えずにかけてみたら?」
とアドバイスをもらいました。試行してみるとそれはそれは、3日間で最も良い3回宙返りが出ました。
自分の体には今まで意識してきた動きが染み付いていた。1年間、やってきたことは少なからず身についていた。
考えすぎは動作をワンテンポ遅らせます。それはトランポリンもそのほかも同じでしょう。
そんな「考えすぎの呪い」に侵されないよう、積極的に行動していきたいものです。
適度に考え、迅速に行動。
(もちろん考えることは重要であるためそれ自体はやめません^_^
あくまでも考えすぎて迷宮入りしないように気をつけると言うことです^_^)
今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。拙い文章となりましたが以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。
こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、総合政策学部3年の小田切伊織です。
暦上では立春を迎えたものの、まだまだ厳しい寒さが続いております。早く暖かな春が来てほしいと願う一方で、間もなくやってくる恒例の花粉シーズンを想像すると、少し憂鬱な気分にもなります。季節の変わり目ですので、皆様も体調には十分お気を付けください。
最近、自分自身の「更新」について考える機会が多くありました。最上級生として部を率いる立場にありながら、知らず知らずのうちに思考が凝り固まってはいないか。今自分が持っている知見や判断のものさしは、果たして今のチームにとって最善なのか。そんな自問自答の中で感じたことを共有できればと思います。
近代哲学の概念によれば、私たちは生まれたとき、何も書かれていない白紙のような存在であるといいます。もしそれが本当なら、今の私という人間を形作っている複雑な模様——これまでの成功や失敗、出会った人からかけられた言葉、あるいは自分自身の譲れないこだわりなどは、すべて後天的に書き込まれた「跡」に過ぎないということになります。
ふと、自分のこれまでの歩みを振り返ってみました。技の習得に向けて、幾度となくトライアンドエラーを繰り返した時間。トップとしてチームをまとめ、多様な価値観を持つ仲間たちと言葉を交わしてきた経験。それらは確実に、私の石板に深く、消えない刻印を残しています。時には、その刻印の多さに迷い、リーダーとしての責任に難しさを感じることもあります。しかし、それこそが「私」という固有の存在を証明し、今の自分を支える背骨になっているのだとも感じます。
もし明日の朝、目が覚めたときに自分の一部が再び「白紙」に戻っていたらどうでしょうか。昨日までの先入観や「こうあるべき」という固定観念を脱ぎ捨て、まるで初めて世界を見る子供のような目で物事を捉え直す。そうすることで、今行き詰まっている自分自身の悩みや、チームが直面している課題に対しても、全く新しい解が見つかるかもしれません。
すべてを白紙に戻すことはできませんが、心のどこかに常に「書き換え可能な余白」を残しておきたいと感じます。経験を積み重ねていく強さと、時にはそれを手放して真っ新な状態から学び直すしなやかさ——この相反する要素の両立こそが、体操という飽くなき探求が続く競技において、そして変化し続けるチームを導く上で、最も必要な姿勢なのだと今は考えています。
凝り固まった思考を一度解き放ち、真っ白なキャンバスにまた新しい理想を描き込んでいく。そんな「自己更新」を繰り返しながら、一歩ずつ前に進んでいければと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。
拙い文章となってしまいましたが、以上で今回のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。
こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、経済学部3年の内田祥子です。
余寒の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。暦の上では春となりましたが、まだまだ寒さは続きそうです。私はここ数日に限らず、慌ただしい日々を送っておりますので、体調管理に気をつけ、残り約1年となった大学生活を大切に有意義に過ごしたいものです。皆様も寒さ厳しき折、どうぞご自愛ください。
突然ですが、皆様は羨望や憧憬という感情を抱いたことはありますか。多かれ少なかれ羨望や憧憬の感情を抱いたことのある人の方が多いのではないかと考えます。これらの違いは、英語で羨望はenvy、憧憬はlongingと表現できます。意味については文字からも推測できるように、前者は羨ましさや妬ましさなどネガティブな感情を含む一方、後者は純粋な憧れや尊敬などどちらかというとポジティブな感情を含む場合が多いです。どちらの感情も自分や相手にとってプラスの効果を与えることもあれば、マイナスの効果を与えることもある両方の側面を持ったものであると言えます。
個人的な話になりますが、私はこれまで憧憬という感情をあまり抱いたことがないように感じています。正確にはこの感情を忘れているのかもしれません。例え話ですが、自分がこんなふうになりたいと思うきっかけを与えてくれた人がいたとします。最初は純粋にその人みたいになりたいと思っていたけれど、途中で本当は別のことをやりたいのだと考えが移り、かつての憧れは自分の中でいつのまにか消えているというようなことになります。またはかつての憧れの存在が残り続け、その憧れた人物にかなり近づいたとします。その時、憧れという感情は消え、手が届きそうな故に感じる羨ましいと思う感情へ変わります。これらはよくある話であるかもしれません。しかし、一方で人は憧れたものに大きく影響を受け、憧れと夢や理想はかなり近いものだと言われています。矛盾したことを言いますが、個人的には一種の憧憬の念は常に抱いておきたいものです。
もう少々脱線させていただきます。哲学染みた話になりますが、皆様は自分の‘見えている’世界について考えたことはありますか。‘見えている’と言うのは、物理的に観察できるものに限らず、所謂心理的、精神的な世界に属するものも全て含みます。以前哲学者が言ったのは、自分に‘見えている’ものは本当は世界に存在しないかもしれないということです。少し意図からは外れますが、要は自分が‘見えている’ものが全てではなく、他者には他者の‘見えている’ものや‘見え方’がある。それを理解する必要があるけれど、本当に理解することは難しいということです。
憧憬も羨望も自分の見ている、見えているものが変わることによってその対象も変わり得ます。自分が見えていないものが見えている人を羨ましく思うことも多々ありますが、羨望も憧憬も感情であり、うまくコントロールしないと自分も他者も不幸にしてしまう可能性があることを認識し、活用していきたいと思います。
曖昧でまとまりのない文章となってしまいましたが、以上で本日のリレー日記を終了させていただきます。ご精読ありがとうございました。