誤差

こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、理工学部管理工学科2年の庄司眞菜です。

先週は春を思わせる暖かさの日もありましたが、ここ数日はまた冷え込む日が続いています。季節の移り変わりを感じるこの頃ですが、皆さまはいかがお過ごしでしょうか。

二月の初めに試験期間が終わり、少し落ち着いた日々を過ごしていたところですが、先日今学期の成績が発表されました。大学に入学してから四度目の成績発表でしたが、やはり成績表をみるのはとても緊張します。

振り返ってみると、昨年の私は希望する学科に進むため、授業や試験にもこれまで以上に真剣に向き合っていたように思います。しかし、無事に管理工学科へ進学することができてしまった今年は、目標としていた学科に進むことができた安心感からか、どこかで少し気持ちが緩んでしまっていたのかもしれません。昨年と同じように勉強しているつもりでも、結果として成績は以前よりも下がってしまいました。

試験期間中、私は現実逃避とモチベーション維持を兼ねて、「この科目はこれくらい取れるだろう」と予想しながら、自分なりにGPAを計算していました。思ったより難しい内容であっても、「きっと出席点や課題で救われるはず」と少し楽観的に見積もることで、なんとか自分を奮い立たせていたように思います。

しかし試験が終わって冷静になってみると、「さすがに出来が悪すぎたかもしれない」と思い直し、予想のGPAを少し下方修正することになりました。それでも、実際に成績が発表されてみると、その予想をさらに下回る結果となり、どうやら私のGPA予測はかなり楽観的なモデルで構築されていたのだと気づかされました。

今回の経験を通して感じたのは、なんとなくの楽観的な感覚だけで物事を見積もることの危うさです。目標があるときには自然と努力できていたことも、一度その目標を達成してしまうと、知らないうちに気持ちが緩んでしまうのだと改めて気づきました。

もちろん成績だけがすべてではありませんが、自分の取り組み方を見直すよい機会になったように思います。これからは結果を楽観的に予想するのではなく、日々の授業や課題にも丁寧に向き合いながら、着実に学びを積み重ねていきたいと思います。

拙い文章となりましたが、以上で本日のリレー日記を終わらせていただきます。ご精読ありがとうございました。

情熱大氷

こんにちは。今回のリレー日記を担当させていただきます、経済学部二年の齋藤凜子です。

木々に少しずつ花が咲き始め、春の訪れを感じる季節となりましたが、同時に花粉症に悩まされている方も多いかと思います。どうか皆様ご自愛ください。

さて、寒さの厳しかったこの2月、私を熱くさせてくれたものがありました。ミラノ・コルティナ冬季五輪です。日本が歴代最多のメダルを獲得し、数々の名場面が生まれた今大会は、熱盛!の連続でした。

普段スポーツ観戦には全くと言っていいほど関心のない私も、テレビに張り付いてルールも技名も分からない競技を応援していました。その中で、特に目を惹かれたのはフィギュアスケートです。体操競技全般に共通する「演技点」、簡単に言うと、いかに綺麗な演技ができたか、が評価されるスポーツが好きなのだと改めて気付かされました。リンクに上がる前の緊張感、あらゆる想いが伝わってくる演技中の背中から指先。アクセルとルッツの違いさえ分からぬまま、テレビやSNSで流れてくる動画に私は何回も涙を流しました(流石に見すぎて今は判別できるようになりましたが)。

歓喜、悔し涙、困惑、焦り、選手の様々な表情がカメラに映るものの、オリンピックという大舞台に向けて積んできた4年間、より正確に言えば競技人生全ては、裏の努力の集大成なのでしょう。いくら感動できても、私に見えているのは氷山の一角なのだと思います。想像上の壮絶な練習や苦悩に涙をしてしまうのです。

体操部ででさえ、選手の皆さんと練習場にいるとは言え、私に見える部分、ましてや理解できる部分は断片的なものでしかありません。しつこく怪我リストの更新を催促しながら、内心は怪我の辛さや痛みを選手同士のように分かってあげられないことに申し訳なさを感じたりします。選手を支えるという責任と役割があるマネージャーとして悩ましいところです。しかし、できることをやるしかありません。実際に体を動かすことはできなくても、できる限りのサポートをし、また選手からも頼ってもらえるよう努力してまいります。

拙い文章となってしまいましたが、今回は以上とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

パチンコ

こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます。文学部2年の黒沢瑛水と申します。

悔しながら、前回の伊藤のリレー日記を読んでとても感動しました。せっかくなので、私にとっての「心の安全基地」は誰だろうかと考えてみたところ、まず最初に高校時代の顧問が思い浮かびました。次に浮かんだのは中学時代からの友人Nです。この2人とはそれぞれ、春休み中に会う約束をしています。おかげで、この長い休み期間もなんとか正気を保つことが出来ています。それぞれとの思い出でも綴ろうかとここまで書いてきたのですが、たった今、Nから行けなくなったという旨の連絡が届きました。理由は金欠。パチンコで全財産が76円になってしまったそうです。ということで、今回のリレー日記では、私はパチンコが嫌いだという話をさせていただくことにします。

パチンコが嫌いな理由は2つあります。1つはたった今、大事な予定を奪われたことです。もう1つは、安心感のなさです。私はまだ一度も打ったことがないのですが、それでもなんとなく、当たらないことの方が多いだろうと思ってしまいます。例えどれほど報酬が大きくなる可能性があっても、当たらなかった場合の損害を軸に考えてしまいます。一か八かではなく、安定してマイナスのない状況の方が好ましいという考え方には、共感してくれる人も多いのではないでしょうか。

私は自分の体操においても同じ考えを持っています。緊張に弱いため、試合本番で当たりを引く可能性が限りなく低いという個人的な理由も含めて、ギャンブル的な演技は避けるべきだと思っています。高校時代はチームでギャンブル演技をそろえた結果、とてつもない試合を量産してしまったという反省もあります。しかし、大学生になった今、安定感もなければ、成功したところでチームのマイナスになるようなDスコアになってしまっている気がします。もうすぐ始まってしまう試合シーズンに向けて、より一層気を引き締めて、練習していこうと思います。

拙い文章となってしまいましたが、以上で今回のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

冒険の対義語

こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、理工学部管理工学科2年の伊藤利紀です。

「冒険の対義語は母である」。大好きな漫画の作者が言っていたこの言葉を、初めて耳にしたときはあまりピンときていませんでした。「分かったような、分からないような」……そんな感覚だったのを覚えています。

この2月、私は2度も体調を崩しました。年末年始から成人式の同窓会や学年末試験の準備、私生活での変化など、慌ただしい日々が続いていました。どれも自分で選んだ道のはずなのに、要領よくこなせない自分に限界を感じ、いっぱいいっぱいになっていたのだと思います。加えて、練習中の不注意で怪我をして思うように動けなくなったことも重なり、気持ちが不安定な日々が続いていました。春休みに入って緊張の糸が切れた途端、溜まっていた疲れが一気に出てしまったのかもしれません。我ながら情けない限りです。

今回の体調不良は、ベッドから起き上がるのも一苦労なほど、今までにないしんどさでした。そんな期間、私は母親に何度も助けられました。食べやすい食事を考え、着替えを運び、水を替えてくれる。普段は質問攻めにされるのを鬱陶しいと感じてしまうこともありましたが、この時は何も言わずにただ看病してくれました。自分はまだ一人では生きていけないのだと悔しくもなりましたが、それ以上に、大きな安心感がありました。じっと家で過ごすなかで、母親とずっと一緒にいた幼い頃を思い出しました。

そんなとき、あの言葉の真意が分かった気がしました。人間は、帰る家があると分かっているからこそ、遠い場所まで足を伸ばして「冒険」ができる。家に帰れば無条件で温かく迎えてくれるお母さんという「心の安全基地」が、その人の冒険を支えているのだと。

大学生になってからの私は、早く自立したいという思いから、親に甘えることに抵抗を感じていました。学校や人間関係のことも自分からは話さず、どこか母親を「安全基地」から除外しようとしていたのかもしれません。けれど、今回の体調不良を通じて、無条件で存在を肯定してくれる愛情を受け入れたとき、心から「ありがとう」と伝えることができました。

そして、よく考えてみれば、私には他にも「心の安全地帯」がありました。話し相手になってくれる同期や友人の存在です。「誰がオカンや」と怒られてしまうかもしれませんが、彼らがちょっとずつ私の心の拠り所になってくれていたのは紛れもない事実です。すごくすごく感謝しています。

以前、いつも自慢話ばかりしている祖父が、こんなことを言っていました。「『働く』というのは、『傍(はた)を楽(らく)にする』という意味なんだよ」と。どこまで本当か疑念は残りますが、面白い考え方だなと感じています。

私もこれから、働いて、誰かを楽にしたり、楽しませたりしたい。お母さんにはなれないけれど、誰かにとっての「心の安全基地」だと思ってもらえるような大人になりたい。この日記を書きながら、そんなふうに思いました。

そのためにも、目の前にあることと向き合い、帰る家がある幸せを噛み締めながら、全力で冒険していこうと思います。

拙い文章となりましたが、以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

呪い

こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、法学部政治学科 3 年の金子慶汰です。

花粉が飛び始めたこの頃ですがいかがお過ごしでしょうか。
1年の辻岡は鼻水が飛び出てしまうためひねりを控えていると先日話してくれました。くれぐれもご自愛くださいね、ひろむ。

さて、2月半ばにトランポリンは、阪南大学にて3大学合同合宿を行いました。今年も最高にハードで最高に楽しい3日間となりました。その合宿の中での気づきを1つ綴ろうと思います。

それは「考え”すぎ”は呪い」であるということ。

私は1年前から屈身3回宙返りを練習しています。それはもう毎日。体が擦り切れるくらい。ただ、最近はうまくいかないことが多くなりました。

「上にあげなきゃ」

「前を見て入らなきゃ」

「このタイミングで姿勢を潰さなきゃ」

「手を遠くから回さなきゃ」

「頭を残さなきゃ」

「腰を高い位置に引き上げなきゃ」

「飛び上がったらすぐに形を作らなきゃ」

そんなことを考え続け、試行錯誤を繰り返す。どこかに歪みが生じれば、技はうまくかからない。
と、以前は思っていました。
先日の阪南合宿で、苦戦している時にとある選手から
「何も考えずにかけてみたら?」
とアドバイスをもらいました。試行してみるとそれはそれは、3日間で最も良い3回宙返りが出ました。

自分の体には今まで意識してきた動きが染み付いていた。1年間、やってきたことは少なからず身についていた。

考えすぎは動作をワンテンポ遅らせます。それはトランポリンもそのほかも同じでしょう。
そんな「考えすぎの呪い」に侵されないよう、積極的に行動していきたいものです。

適度に考え、迅速に行動。
(もちろん考えることは重要であるためそれ自体はやめません^_^
あくまでも考えすぎて迷宮入りしないように気をつけると言うことです^_^)

今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。拙い文章となりましたが以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

タブラ・ラサ

こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、総合政策学部3年の小田切伊織です。

暦上では立春を迎えたものの、まだまだ厳しい寒さが続いております。早く暖かな春が来てほしいと願う一方で、間もなくやってくる恒例の花粉シーズンを想像すると、少し憂鬱な気分にもなります。季節の変わり目ですので、皆様も体調には十分お気を付けください。

最近、自分自身の「更新」について考える機会が多くありました。最上級生として部を率いる立場にありながら、知らず知らずのうちに思考が凝り固まってはいないか。今自分が持っている知見や判断のものさしは、果たして今のチームにとって最善なのか。そんな自問自答の中で感じたことを共有できればと思います。

近代哲学の概念によれば、私たちは生まれたとき、何も書かれていない白紙のような存在であるといいます。もしそれが本当なら、今の私という人間を形作っている複雑な模様——これまでの成功や失敗、出会った人からかけられた言葉、あるいは自分自身の譲れないこだわりなどは、すべて後天的に書き込まれた「跡」に過ぎないということになります。

ふと、自分のこれまでの歩みを振り返ってみました。技の習得に向けて、幾度となくトライアンドエラーを繰り返した時間。トップとしてチームをまとめ、多様な価値観を持つ仲間たちと言葉を交わしてきた経験。それらは確実に、私の石板に深く、消えない刻印を残しています。時には、その刻印の多さに迷い、リーダーとしての責任に難しさを感じることもあります。しかし、それこそが「私」という固有の存在を証明し、今の自分を支える背骨になっているのだとも感じます。

もし明日の朝、目が覚めたときに自分の一部が再び「白紙」に戻っていたらどうでしょうか。昨日までの先入観や「こうあるべき」という固定観念を脱ぎ捨て、まるで初めて世界を見る子供のような目で物事を捉え直す。そうすることで、今行き詰まっている自分自身の悩みや、チームが直面している課題に対しても、全く新しい解が見つかるかもしれません。

すべてを白紙に戻すことはできませんが、心のどこかに常に「書き換え可能な余白」を残しておきたいと感じます。経験を積み重ねていく強さと、時にはそれを手放して真っ新な状態から学び直すしなやかさ——この相反する要素の両立こそが、体操という飽くなき探求が続く競技において、そして変化し続けるチームを導く上で、最も必要な姿勢なのだと今は考えています。

凝り固まった思考を一度解き放ち、真っ白なキャンバスにまた新しい理想を描き込んでいく。そんな「自己更新」を繰り返しながら、一歩ずつ前に進んでいければと思います。今後とも、よろしくお願いいたします。

拙い文章となってしまいましたが、以上で今回のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

言語化能力

こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、商学部3年の大脇美怜です。

春寒の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。日中はふと春の気配を感じる瞬間も増えてまいりま
したが、朝晩はまた冷え込む日が続いております。私はこの数週間、就職活動をはじめ様々な締
め切りに追われる日々を過ごしています。今の努力が来年の春の自分を支えてくれると信じ、目の
前の課題に向き合う毎日です。

さて、突然ですが、皆様はご自身の考えや思いを、納得のいく形で言葉にできていますか。私は
この「言語化能力」に、ずっと苦手意識を持っています。頭の中には確かに考えがあり、伝えたい
思いもあるのに、それを筋道立てて整理し、相手に届く言葉へと変換することがどうしても難し
いのです。その壁に真正面からぶつかったのが、就職活動のエントリーシートでした。自己PRや
志望動機を書こうとすると、単語や断片的なイメージは浮かぶものの、それらを一つの文章として
紡ぐことができない。結果として、思うような通過率は得られませんでした。

一方で、アイデアや作品をまとめたポートフォリオは評価していただくことができました。そのと
き正直に思ったのは、「いっそ文章なんて書かず、これだけで勝負できればいいのに」ということ
でした。もう文章を書きたくない、そう感じた瞬間もありました。しかし、どの企業においても
最終的に待っているのは面接です。自分の考えを自分の言葉で伝える場から、逃げることはできま
せん。

この就職活動という機会は、私にとって言語化能力と向き合う最後のチャンスなのかもしれない
と感じています。自分の思いをうまく伝えられなければ、相手から返ってくる答えもまた、どこか
噛み合わないものになってしまうでしょう。Alが文章を整えてくれる時代になったとしても、人と
人との対話そのものはなくなりません。だからこそ今、目を背けずに向き合いたいと思います。
自分の言葉で考え、自分の言葉で伝えること、言語化から逃げない一年にします。

拙い文章となってしまいましたが、以上で今回のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。

Longing or Envy…

こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、経済学部3年の内田祥子です。

余寒の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。暦の上では春となりましたが、まだまだ寒さは続きそうです。私はここ数日に限らず、慌ただしい日々を送っておりますので、体調管理に気をつけ、残り約1年となった大学生活を大切に有意義に過ごしたいものです。皆様も寒さ厳しき折、どうぞご自愛ください。

突然ですが、皆様は羨望や憧憬という感情を抱いたことはありますか。多かれ少なかれ羨望や憧憬の感情を抱いたことのある人の方が多いのではないかと考えます。これらの違いは、英語で羨望はenvy、憧憬はlongingと表現できます。意味については文字からも推測できるように、前者は羨ましさや妬ましさなどネガティブな感情を含む一方、後者は純粋な憧れや尊敬などどちらかというとポジティブな感情を含む場合が多いです。どちらの感情も自分や相手にとってプラスの効果を与えることもあれば、マイナスの効果を与えることもある両方の側面を持ったものであると言えます。

個人的な話になりますが、私はこれまで憧憬という感情をあまり抱いたことがないように感じています。正確にはこの感情を忘れているのかもしれません。例え話ですが、自分がこんなふうになりたいと思うきっかけを与えてくれた人がいたとします。最初は純粋にその人みたいになりたいと思っていたけれど、途中で本当は別のことをやりたいのだと考えが移り、かつての憧れは自分の中でいつのまにか消えているというようなことになります。またはかつての憧れの存在が残り続け、その憧れた人物にかなり近づいたとします。その時、憧れという感情は消え、手が届きそうな故に感じる羨ましいと思う感情へ変わります。これらはよくある話であるかもしれません。しかし、一方で人は憧れたものに大きく影響を受け、憧れと夢や理想はかなり近いものだと言われています。矛盾したことを言いますが、個人的には一種の憧憬の念は常に抱いておきたいものです。

もう少々脱線させていただきます。哲学染みた話になりますが、皆様は自分の‘見えている’世界について考えたことはありますか。‘見えている’と言うのは、物理的に観察できるものに限らず、所謂心理的、精神的な世界に属するものも全て含みます。以前哲学者が言ったのは、自分に‘見えている’ものは本当は世界に存在しないかもしれないということです。少し意図からは外れますが、要は自分が‘見えている’ものが全てではなく、他者には他者の‘見えている’ものや‘見え方’がある。それを理解する必要があるけれど、本当に理解することは難しいということです。

憧憬も羨望も自分の見ている、見えているものが変わることによってその対象も変わり得ます。自分が見えていないものが見えている人を羨ましく思うことも多々ありますが、羨望も憧憬も感情であり、うまくコントロールしないと自分も他者も不幸にしてしまう可能性があることを認識し、活用していきたいと思います。

曖昧でまとまりのない文章となってしまいましたが、以上で本日のリレー日記を終了させていただきます。ご精読ありがとうございました。