皆様こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、商学部4年の浦口優です。
私事ですが、先日風邪を引きました。最初は発熱し、その後無事熱が引いたと思ったのも束の間、声が全く出なくなりました。幸い体調自体は問題なかったので、部活で練習はしていたのですが、残念な事に人とのコミュニケーションが全く取れません。練習中、平行棒の上でタンマが欲しくてジタバタしていた哀れな私は、さながら52ヘルツのクジラのようでした。
よく人のコミュニケーションはノンバーバルコミュニケーション、つまりは言語を介さない情報が9割を占めると言いますが、非常に疑わしいものです。きっとそれは、言語を介する1割の上に成り立つ理論であって、肝心な言語を介した内容が土台になければ顕在することは叶わないのでは?と今回の経験を通して個人的に思いました。思ったことはちゃんと言葉にしましょう。大切です。
皆様は幼い頃に頃から真っ直ぐに信じ続け、習慣化していることはありますか?
「テレビを近くで観てはいけない」であったり、「トイレには神様がいて綺麗にすると別嬪さんになれる」であったり、幼い頃から体に染み付いていることは人それぞれいろいろなものがあるのかなと思います。それが私の場合は「体操のイメージは一人称視点ですべき」でした。
きっかけは鮮明ではありませんが、おそらくテレビで内村選手の特集みたいなものを観ていた時だと思います。この「内村選手がイメージトレーニングを一人称視点でしていること」は体操界では有名な話ですが、当時の幼い私も影響を受けて、それから常に一人称視点でイメージすることが正義だと思い込んで生きていました。
ところが最近変化がありました。いつものように鉄棒の下りを怖がってた時に、側から見たら飛び出す方向さえ定まってれば絶対安全では?とふと思いました。そこからは簡単で、一人称で難しいことはごちゃごちゃ考えずに、三人称視点で自分が斜め上に飛び出ることをイメージしながら下りを掛けたらすんなり上手くいくようになりました。軌道に乗った私は、同じく普段は中々掛からない平行棒の下りも同様に行ったところやはりすんなりできました。
ここで起きたことを簡単に言えば、一人称で考えるからこそ得られる怖くなる要因を含めた膨大な量の情報を捨てて、三人称視点でごく僅かな情報量で技を行っているだけなのかなと思います。これはつまり、余計な情報を捨てて技を実施したら上手くいったということですが、きっかけは幼い頃から信じていた「技のイメージは一人称視点で行わなければいけない」という固定概念に疑問を提起したことにあります。
すなわち、私にとって内村航平は成功例サンプル1であって、絶対的な唯一の正解ではなかったのです。
今週末にも東グループが控えておりますが、ラストイヤー、批判的思考を大事に走り抜けたいと思います。
拙い文章となりましたが、以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。