皆さまこんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、環境情報学部4年の上田乃維です。いよいよ今回が、私が書く最後のリレー日記となりました。長いような短いような4年間を過ごし、いよいよ最後の舞台である川崎ジャパンオープンが迫り、期待と不安で胸がはち切れそうになっています。最近は外の空気が一段と冷たくなりました。秋を飛び越えて到来した冬の冷たい空気と、ラストスパートによる緊迫感が相まって、心肺が凍りそうになる一瞬に意外にも心地よさを感じています。
最後に綴るリレー日記のタイトルは、「主(あるじ)の欠片(かけら)」です。体操部の主将の側近として、その一部分の欠片として走り抜けた2年間の物語を巡って行きたいと思います。どうか最後までお付き合いいただけますと幸いです。
先日の伊保内のリレー日記でも述べられていましたが、私たちの世代は2年間、トップの立場で体操部に関わらせていただきました。2年前の今頃、今まで引っ張ってくださった先輩方が卒業され、トップとしての責任が自分の手のひらに舞い降りたその瞬間から、その全てが崩れ、こぼれ落ちるような、そんな絶望から始まったことをよく覚えています。特に最初の1年間は、競技的な結果は全く残せず、マネジメントも思うようにいかず、苦しい1年間を過ごした覚えがあります。ここから2年間も自分はこの立場で責任と戦い続け、苦しみ続けるのかと考え、常に頭を抱えていました。
そうして頭を抱えていた原因の一つに、「多様性」があります。私は大学に入った時はさまざまなバックグラウンドを抱えた人たちに囲まれ、一つ一つの出会いに感動し、自分とは全く異なる世界で歩んできた人生を覗くことで知らない別世界の扉が開いたような浮遊感に包まれていました。しかしそれはあくまで自分とは違う世界での出来事であり、行く先が違うからこそ共存できるアニメや映画、物語の延長であると捉えていました。息を呑むようなスリルのある映画や、1秒後の命は保証されていない戦闘アニメは、側から見れば面白い違う世界のお話ですが、いざ自分がその世界に入り込んだ瞬間、その緊迫感に打ちひしがれることになるでしょう。少し誇張してしまいましたが、残念ながら私は大学生活を通して、その「多様性」という言葉が、そんなイメージに近いネガティブなものへと変化してしまいました。さまざまなバックグラウンドを抱えた人たちと同じ方向に向かって業務を進めるのはとても大変なことですし、他のチームメイト全員の分散した思想をまとめ上げ一つの結論を出すのも決して簡単なことではありません。伊保内のリレー日記にもありましたが、どれが正義か、という正解のある問いに出会ったことはなく、どれが最適解か、という難題の中で戦い続けていたような気がします。結果を出した勝者こそが正義のこの世の中で、非営利の組織である体操部は、そんな世の中とは一線を画していたように感じます。
「多様性」という仮面を被った、ただのお互いの不干渉でしかない悪夢は、表面上の関係構築にとどまり、残りの時間を無難にやり過ごすことができるかどうかのギャンブルでしかないように感じていました。当然、本来の多様性の意味はさまざまな価値観の人間がお互いを認め合い、共存している状態を指すと考えていますが、最近はハラスメントが厳しくなったり、マイノリティを過剰に擁護するようになったりと、適応するのが難しい時代が到来し、お互いを認め合い共存するという本来の多様性の意味からは、かけ離れた状態になってしまっているように感じます。僕には、お互いに過度に干渉せず、認め合ってる風でただただ思想の共有と議論をしていないだけの不干渉のように映っています。それは決して良好な関係ではなく、ただただ今のところは、仲が悪いわけではないという、表面上の関係に過ぎず、触れたくないものに対して蓋をしてやり過ごしているだけであると感じるようになりました。
僕の心と思考を縛ったこの多様性という仮面を被った「不干渉」は、僕以上に主将を縛っていたように感じます。論理的な僕と違って人間味あふれる優しい彼は、自分の点数には影響しない他者のために自らの練習を削り、積極的に関わろうとしていました。僕にはなかなかできないそんな一面は、自らの時間や労力を他者に使いすぎることができる彼の、強みでも弱みでもあったと思います。3年生になり、トップとして新世代がスタートすると同時に、自分達の世代はどんな体操部を創り上げたいかを脳みそが遠心分離するほど回転させ、施策にも到達しない数々の駄策を打ち出し、後輩からの信頼を失い、気付いたら倒れてしまった彼を一人にしてしまった時は、自分の無力さを痛感し、自分は主将の側近でも、それを補う一部分の欠片にもなれていないと自責の念に駆られたことを今でも鮮明に覚えています。
加えて競技面では、1年生の時から、4年生で華を咲かせるという目標のもと、逆算と修正を繰り返し、この4年間を走り抜いてきました。しかし、難度点を急激に上げた3年生では、大会の度に中断が重なり、大会に出ることをすごく嫌がっていた時期でした。思うように結果が出せず、自分の練習や目標、演技にも自身が持てず、日々の練習に楽しさを見出せず、就職活動や部活のマネジメント、その他の降り掛かる苦難に責任を転嫁して、現実から目を背けていました。
これらの2つの苦難に苛まれ、ゴールの見えない暗い闇の中をもがき続けた3年生の時期が、今振り返ると自分を成長させてくれたように思っています。とはいえ、それは振り返って初めて感じられるものであり、当時の僕は病魔に侵され、陽光を嫌い夜を待つ、心の壊れかけた人形のようになっていました。このままあと2年間もこの苦しみからは解放されず、光の差さない暗闇を彷徨い続けなければならないのかと感じていました。
しかし、3年生の時に思い描いていたゴールまでの距離と、4年生になった途端のゴールの近さには、自分では想像もできないくらい大きな差がありました。最終学年としての責任と、無限に続くように感じていた時間が、実は1年という短期間でしかない現実から焦燥感を感じつつも、それらがうまく作用し、消え掛かっていた火が、冷静でありつつも燃え盛る蒼炎のようになっていきました。そこからは競技にもマネジメントにも本腰を入れて取り組むようになり、逆算思考や批判思考を用い、さまざまな観点から自らとチームを分析し、より的確な対策を取捨選択するようになり、その効率の良さと、これまで以上に急激な自らの成長に楽しみを見出して、気づけば毎日の部活に没頭していました。
この頃には、器械もトランポリンもインカレに向けて全力で走り出しており、お互いに成長し合い、去年とは考え方も性格すらも変わり果てた主将と2人で、どうすれば部活がより良くなるか、今の僕たちにできることは何か、という話し合いや、インカレや引退に対しての焦りや不安、夢と現実とのギャップなど、ここでは挙げきれない程の思考の共有をしていました。主将と二人三脚で苦難すらも楽しみながら走り抜けたつもりが、残念ながら器械は優勝も昇格もあと一歩のところで逃し、私自身も決勝進出を僅差で叶えられず、2人して敗北した経験は、一生の思い出であり財産、宝物であると思います。
現在は、伊保内もトランポリンでの挑戦を始め、引退試合が一緒になるという思いがけないハプニングに、とても心躍る毎日の練習を過ごしています。引退間際、残り1ヶ月すら切っている今が、11年間の競技生活で最も上手く、最も効率的で、最も楽しい競技生活となっているのは、伊保内をはじめとする体操部の同期の仲間達、信頼し切った全てを託せる後輩たち、そしてそれらを取り囲んでくださる先輩方、他にもこれまでに関わってきた全ての人のおかげで、今の自分が形成されているように思います。本当に皆さん大好きです。お世話になった、感謝を述べたい先輩や後輩、その他の関係者は本当に数えきれないほどたくさんいますし、他にも体操部の4年間で学び得た本当にたくさんの経験がありますが、それを書き出すと伝記になってしまいそうなので、皆さんを今後飲みにお誘いする口実として胸の内に秘めておきますね。
さて、ここまで綴ってきたさまざまな「主の欠片」のエピソードは、いかがでしたでしょうか。苦しみを乗り越え、楽しみを見い出し、さまざまな変化を遂げてきた僕らの世代は、単なる主将の側近の一部分としての、小さくて儚い欠片なんてちっぽけなものではなく、2年間に渡って体操部に大きな爪痕を残した名主将であるMasterと、彼に足りない多くの部分を補う星屑のような欠片のPieceが双璧を成す、”最高傑作”の世代であると、胸を張って、誇りを持って次の世代にバトンを渡していきたいと思います。本日のリレー日記のタイトルですが、真の読み方は、”Master Piece”でした。”最高傑作”という意味であるこの言葉が、僕らの世代に相応しいと思えるほどの自信と共に卒業して行きます。
以上で、私の4年間の最後のリレー日記とさせていただきたいと思います。体操部の4年間で本当に多くのことを学び、貴重な経験をしたこのかけがえのない財産を手にした今、改めて、慶應義塾大学体育会器械体操部に入ってよかったと、心の底から思います。僕に関わってくださった皆さん、本当に本当に、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。
これからの体操部のさまざまな新しいカタチを楽しみにしています。次の世代を担う後輩たち、どうか体操部ライフを楽しんで!