オクシモロン

 こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、商学部2年の浦口優です。
 私は先日、大学の授業で学術論文などで用いられる難解で遠まわしな文章表現は「レトリック」と呼ばれていると学びました。学術論文において、このレトリックを用いることであたかも高尚な考察であるかのように仕立てられているようです。論文とは自らの研究を文章という媒体を通して世に広めるために存在するはずです。優秀な論文を予めふるいにかけるという点では、合理性はあるのかもしれません。しかし私は、より簡潔に表現し多くの人に共有した方がより益があるように感じます。文学においては表現の幅を広げるという点において十分に優位性を感じますが、論文においても私には計り知れないような論理が存在するのでしょうか。まだまだ子供な私には分かりません。

 さて、器械体操部では先日、120周年式典が催されました。120年というと私が現在20歳なので、自分の視点で見ると人生6週分という容易には想像しがたい年月です。私は今年20歳になり、晴れて大人の仲間入りしたような気分になることもありますが、競技をしていると大人になるのがいいことなのか疑問を抱くことがあります。人は大人になるにつれ、周囲の影響からなのか精神的に成熟していき、合理性を求めるがばかりにどこか冷めたところから物事を判断するようになっていくように感じます。私の場合、体操に当てはめて考えてみると、小さい時は後先考えずに色々な技に挑戦していけたのに、最近は何をするにも成功よりも失敗した時のリスク、さらに言えば自分の死が脳裏によぎります。これも、大人になることで小さな頃には見えていなかったことが見えるようになってしまった結果でしょう。
私はこのように成長するにつれ失敗のリスクが浮き彫りになってしまうこと事態はしょうがないことで、受け入れるのが賢明だと感じます。また、合理的な、どこか冷めた視点で思い耽った時、そんな怖い思いをしながら体操を続けて何が得られるのか、非合理なのではと考えることも時にはあります。そのような感情と考えと付き合い、対抗できるのは強いパッション、すなわち激情だと常々私は信じています。しかし、大人になることで感情の起伏が小さくなるのは誰しもが感じることだと思います。私は、感情とは誰かに触発されたり、他人を見て自分が考えたことをもとに動くような他人依存なものだと思います。また、大人になるとどこか達観し、感情の受け皿が小さくなることで、感情の波は小さくなると考えます。先ほども書いた通り、おそらく私は人より、物事の悪い結果を想像することが多いため、その分感情を正の方向に揺さぶってくれる多くの影響が必要です。だから私は誰かの文章に、音楽に、映像に、思想に影響されていたい。精神的に大人になることで受け皿が小さくなるなら子供のままでいたい。そのようなことを心の底から思います。これが社会に出てからは通用しないことはわかっています。私は先ほど、偶に体操をする意味を見失うことがあると書きましたが、己が矜持のため競技はやり切ると決めています。そのためにも当面、体操競技をやり切るその時までは子供のままでいようと思います。

 終始まとまりのない文章となってしまいましたが、以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読、ありがとうございました。