失うことで見えるもの

こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、法学部法律学科2年の南和希です。

緊急事態宣言が延長されましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。私自身、宣言の延長はある程度覚悟しておりましたが、実際に延長が決まってみると正直複雑な気持ちです。とはいえ、大学の授業も始まりましたので、引き続き今できることをやっていこうと思います。

本日は、私がこの1か月間で考えたことを少し書かせていただきます。

先月の初めから部活動が自粛期間に入り、1か月以上、家族以外の「人間」と直接かかわることができなくなりました。これまでも、長期休暇等でほとんど他人と接しない期間を経験したことはありますが、今回はその時とは違う感情を抱いています。それは“人に会いたい”という感情です。おそらく、今回は「会おうと思えば会える」可能性を奪われ、「会おうと思っても会えない」状況になったことが一因だと思います。今まで当然だと思って顧みたこともなかった、“人に会える”という普通の生活を失って初めて、私は人とかかわれることの大切さに気付いたわけです。

考えてみれば、失って初めて気付くことは日々の生活の中にも多くあります。例えば、ケガをしたとき。私もケガをして「普通」の生活を失い、歩き回れることのありがたさに気づいた経験があります。普段は、満員電車に乗って登校することには何の魅力も感じませんが、ケガで歩くこともままならなくなると、今までいやだなと思いながら電車に乗っていたことすらもうらやましく思えたりもするものです。

満員電車に乗りたいと思うかはさておき、普通の生活の大切さは想像すれば分かると思われる方もいらっしゃると思います。しかし私は、人間は頭では理解していても実際に体験しないと本当の大切さには気が付けないものなのではないかと思っています。

誰だって家族が大切な存在であることは知っています。しかし、少なくとも私について言えば、もし家族のうちの誰かがいなくなったら、と考えても現実味がなくてあまり想像がつきません。私の想像では、残念ながら、実際に失うことを経験するまで私が家族の本当の大切さに気付くことはできない気がするのです。

しかし、そうだとしても、想像することの役割は大きいと思います。経験を通して本当の大切さに気づくところには到らなくても、想像によって足りない経験を補い、日常の中に大切なことがあることに気づくことはできると思うからです。そして、大切なことの存在を認識できれば、それらを大事にしながらこれからの生活を過ごすことができます。

そういう意味では、今回の自粛で人と接することができないことを体験し、人とのかかわりの大切さに少しでも気づくことができたことは、私にとっては大きな経験であると思います。自粛が終わって「普通の」生活が戻ると、この感情は薄れていってしまうと思いますが、できるだけこの気持ちを忘れず、普通の日々を大切に過ごしていきたいと思っています。

拙い文章となってしまいましたが、以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。