ベクトルが違う

こんにちは。本日のリレー日記を担当させていただきます、薬学部薬科学科3年の西尾颯馬です。

少し前までは安定しない気候に左右されていましたが、ついに白い息も見え始め本格的に冬の到来を感じています。

一般的に大学3年の冬といえば、就活シーズン真っ只中です。私は大学院に進学の予定のため少しだけ先の話になりますが、同世代の知り合いは皆、せわしなく駆け回っています
影響を受けて傍目で就活を覗いてみることにしたのですが、そこでは“成長”という言葉が多用されている印象を受けました。私はこの単語を聞くとしばしば悶々とした気分に陥ります。何を指しているのかが不明瞭にもかかわらず、あたかも統一的な意味が存在しているように感じるからでしょうか。ここで明言しておきたいのは、祖父母や先生などに言われるのは全くもって問題ありません。祖父母に久しぶりに会ったときに言われるのは、身長や顔つきから判断して大人に近づいたということを指しているのでしょうし、これに対して「それってどういう意味?」と聞き返すほど可笑しな人間ではありません。

ここまでポジティブな意見を述べてきていませんが、いわゆる“成長”という概念自体が嫌いなわけではありません。むしろ、ゲームでいうところのレベルアップのような感覚をもたらし、生活に彩りを与えてくれるものだと考えています。
しかし、ゲームと異なるのは進めた先にあるゴールが人それぞれであるといった点です。それ故に「成長したね」と人に言うのは、自分の物差しを相手におしつけ勝手に測量することに繋がりかねません。例えば、足が速いことはスポーツ選手にとっては褒められるべきですが、その他の大人にとってはほぼ意味を成しません。
この例から分かるように、人は自らが持つ理想像に近づくことを“成長”と呼ぶのではないでしょうか。

部内でもこの単語がしばしば出てくるように思います。人に寄り添える人間というのが私の持つ理想像の1つですので、部員一人ひとりが持つ理想像をしっかりと把握する。そうすることで個人に寄り添った測量になり、自分の“成長”にも繋がります。
そして“成長”した暁には、以前の自分より優れた選択ができるようになるはずです。今年一年も終わりますが、来年の今頃には「今の自分ならもっと良い選択ができたなぁ」と悔しがっていられたらと思います。もちろん、現状の最善は尽くしますが。

拙い文章となりましたが、以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。