人生は学問である

皆様こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、法学部政治学科2年の伊保内啓佑です。
同期の西尾君が中間試験に入り、もう秋学期が半分終ろうとしているという恐怖を覚えた次第でありますが、皆様はこの四半期どのように過ごされましたでしょうか。
私はこの四半期を通じて、ある重大な事に気が付きました。それは「人生は学問である」という事です。急に何を言い出すんだ、と自分でも笑ってしまいますがぜひ最後までお読みいただけると幸いです。

私は普段の練習から、体操の運動を「物理的」に解剖して理解しようとしています。体操という競技は「物理のスポーツ」です。人間は皆同じ骨格を持っており、同じ場所に同じ筋肉がついています。それをどう扱うかで、生み出される運動エネルギーが決定されます。つまり、力学的に橋本大輝選手と同じベクトルの力を生み出せば、理論上はオリンピックで優勝できるということになります。少し飛躍しすぎましたね。しかし、言いたいことは伝わりましたでしょうか。力学的に同じ現象を引き起こせば、上手な選手と同じ運動をすることができるのです。
そこであることに気付くはずです。「これって辿り着く所は皆同じじゃないか」と。そうです。辿り着く動きがあるはずなのです。それが「技」という問いに対する答えと言えます。その辿り着いた答えは、法則であり、普遍的です。この作業を、数学や物理の世界では「一般化」と呼びます。聞き覚えがないでしょうか。数学Bの数列という単元で、第1項、第2項、第3項があるときに、そこに見られる法則から一般項第n項を求めますよね。ここでの「一般」は、先程申し上げた「一般化」の一般と完全に同義です(辞書的な意味で言うと「特殊な物・事・場合から、普遍的な法則や概念を引き出すこと」)。その一般化された沢山の項たちから、ある公式が導かれました。物理でも、実験を繰り返し、試行回数を1回、2回、3回と増やしていくと、ある法則性が見えてきました。それを一般化と呼び、そこから沢山の公式を導き出しました。
公式が導けると、もう試行をせずとも結果が予見可能となります。体操は物理のスポーツですので、これと全く同じことが言えます。練習で、ある技の試行を繰り返していくと、ある法則性が見えてきて、その運動を一般化できます。その一般化された運動は他の技にも適応できるかもしれません。そうして自分の中で運動の「公式」が増えていくと、上手な人の運動を見ただけで、試行をせずともそのやり方が予見可能となります。私が体操を物理のスポーツと呼んでいる理由はお分かりいただけましたでしょうか。

実はこの「一般化」を行うのは、自然科学の分野だけではありません。政治学、経済学、社会学など、人文科学の世界においても、これまで人類が歩んできた歴史から、ある法則性や発展モデルを体系化しようとし、これから我々が歩んでいく未来を予見しようとします。つまり、「一般化」を行うのは学問全体の普遍的なテーマであると考えられます。
ということは、一般化できるのは体操だけであるはずがありません。人生において、勉強や仕事、趣味に至るまで、ありとあらゆることは、一般化することによって成長していけるのではないでしょうか。これこそが、私が冒頭で言った「人生は学問である」ということの意味です。私はこの命題の真に驚くべき証明をもっていますが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできません。

拙い文章となってしまいましたが、以上で本日のリレー日記とさせていただきます。ご精読ありがとうございました。