「虚構」の価値の低迷とモチベーションの低下について

 こんにちは、本日のリレー日記を担当させていただきます、環境情報学部3年の上田乃維です。

 三寒四温の季節となり、日頃の服装選びには悩まされるようになりました。朝夕と冷え込む日々が続いておりますが、皆様におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。5月の大会まで少し期間が空きますが、3月には多くの合宿が予定されており、忙しくも楽しそうな年度納めが控えています。最後の1年となりますので、後悔のないよう、日々全力で打ち込んでいきたいと思います。

 さて、本日のテーマは、「虚構」の価値の低迷とモチベーションの低下について、です。Wikipediaによると、「虚構」とは、事実でないことを事実のように作り上げること。つくりごと。とあるように、実物として存在しないものや、作り話などが当てはまるでしょう。宗教や神の存在も、ある種の虚構と言えるでしょう。

 虚構の存在は、人類史の中でも人類に多大な影響を与えたもののひとつであると言えます。約7万年前から3万年前にかけて起こった、「認知革命」と言われる、言語能力や意思伝達能力の発達がホモ・サピエンスに見られました。その認知革命において、虚構の存在を信仰することで、各々が主体的に所属するグループを選択し、共通認識をもとに、個の力からグループの力を操れるようになり、タイマンでは絶対にライオンに勝てないような人類が、厳しい自然界の生存競争を勝ち抜いてきたのでしょう。

 虚構の存在という共通認識で1番わかりやすいのは、宗教による結束だと思います。社会の複雑性が増すにつれ、社会の安定を維持するためには宗教が大きな役割を果たしたと考えられます。神の代理人である聖職者が、トップダウンの政治的支配を通じて社会の安定を確立し、政治的・軍事的・社会的な指導者が協力してこの役割を達成した時、教義は伝統的で揺るぎないものとなったと、歴史を学ぶ上で考えらます。宗教は社会の安定性と統一性をもたらし、政治革命が起こると宗教指導者は柔軟に状況に適応し、新しい体制に対応するために教義を調整されてきました。

 現代の組織を見ても、異なるグループが競合する中で、それぞれのメンバー同士が協力し、内部での意思疎通や結束を発展させることが、生存と繁栄において有利であると、進化の過程で選ばれた特性だと考えられます。競合するグループの行動を予測しつつ、仲間内での協力ができるグループは、その能力が低いグループよりも遙かに有利だったと予想できます。これが複雑な文化を生み出す原動力となり、個々のメンバーが協力して共通の目標を達成する力が進化していったのだと思います。

 これまでは、宗教を信仰する上で根本となる、神やその代理人である聖職者は全知全能であり、神の言葉とされた聖書などに、行動規範や人の生き方の理想像が決められており、それを前提とした人間の行動が確立されていました。西洋の騎士道や日本の武士道なども、そこに当てはまるもので、容易に想像できるものでしょう。

 しかし近年、こういった虚構の存在を信仰し、結束する力、個々のメンバーが協力して共通の目標を達成する力が減衰してきているように感じます。ここには、本来人類の生活を豊かにするはずの科学の進歩が、神の言葉によって決められた行動規範を、一部否定できるようになってしまい、虚構への信仰度合いが減ってしまったと考えられます。

 例えば、イスラム教の義務の一つに、ラマダンと呼ばれる、1ヶ月間、日が出ている時間の飲食を禁止するものがあります。飲食だけでなく、悪口、嘘、揉め事、欲望、性行為も断ち、ラマダン期間中は、普段以上に良い振る舞いをすることが推奨されています。このラマダンの目的は神様に近づき、自信の信仰心を清めることのようです。1ヶ月間の断食はとても苦しいものであると予想できますし、自分にできるかどうかもわかりません。ただ、イスラム教徒のこの活動を見ていると、宗教の信仰がこれほどの活動の原動力につながっていると考えられるでしょう。この、宗教の信仰によって得られる、活動への原動力、モチベーションが重要なポイントです。

 しかし、これらの活動の中で、近年の栄養に関する研究などから、健康に害を及ぼすような危険な行為であるという警鐘を鳴らす学者も多く、このような信仰のあり方には、懐疑的な目を向ける人も増えてきました。ラマダンに関しては、現在もイスラム教の活動の一つとして、風習が残っているものですが、昔の日本の小さな村で人柱を立てたり、神様への生贄として人を殺したりする文化もあり、それらがなくなってきているという事実からも、虚構への信仰度が減り、神の言葉によって決められた行動規範に対して、疑問視をする人が増えてきた証拠であると言えるでしょう。決まっている行動、しきたりだからというのが理由にならず、なぜそうするのかを科学的に解明したり、理由を求めたりして、ある種の正しさ、合理性を獲得しようとする傾向にあるのだと考えました。

 ダラダラと人類史について書いてしまいました。少し難しい内容であると思いますので、一旦簡単にまとめさせていただきます。

人類は個の状態では生存競争に勝てなかった。

認知革命により、虚構の存在を信仰することで個の力がグループの力になった。

虚構の信仰によって得られる原動力により、自然界の支配者にまで上り詰めた。

現在、過度な合理性の探求により、虚構への信仰度が減衰しているのではないか。

といった論理展開です。伝わっているでしょうか。

 さて、では改めまして本日のテーマである、「虚構」の価値の低迷とモチベーションの低下について、ですが、少し全体像が見えてきたのではないでしょうか。ここまでは人類史という、大変規模の多きな、想像の範疇を超えた話でしたので、あまりイメージがつきにくかったかもしれません。

 では、これらの考えを慶應義塾体育会器械体操部に落とし込んで考えてみましょう。

 まず、なぜ虚構について、はたまたこのような人類史について考えるに至ったのかという経緯からお伝えいたします。最近、体操部に限った話でもないですが、「時代が違うから」といった言葉や「Z世代」なんていう言葉も生まれくるほど、昔と今は違うんだ。という意見をよく耳にします。しかし私は、「時代が違うから」という一言でさまざまな課題を片付けてしまうのも、少し逃げに近いような感覚があり、いまいち腑に落ちませんでした。そこで、時代が違うと何が違うのかを考えてみました。基準です。基準が違うのだと考えました。しかし、少し似た意味を持つ言葉でもあり、まだイメージしにくいので、具体的に何の基準が違うのだろうと考えました。そこで、今日のテーマである、「虚構」の存在価値と信仰度合いに落ち着きました。

 人類史という大枠で、虚構への信仰度合いが減衰しているのではないか。と述べましたが、体操部に落とし込んで考えると、体操部にとっての虚構の存在は神や仏ではなく、「体育会生の理想像とは」という存在であると考えます。体育会だから、という信念が原動力、モチベーションとなり、何か大きな成果、活動を成し遂げられた先輩も多いと思います。これを読んでくださっている先輩の中にも、体育会生ということを誇りに持って何かを頑張った経験や、苦しみながらも何かを成し遂げた経験がある人も多いと思います。

 これを、先ほどの人類史の話では、科学の発展によってさまざまな事象に対し、必ず理由と合理性があり、虚構など存在しないものであるという考えが、共通認識である虚構への信仰度を減衰させ、原動力、モチベーションの低下につながっていると述べました。体育会では、体育会生だからという理由で行っていた、多少理不尽な行為や合理的ではない行為に対し懐疑的な目を持ち、科学的に正しい、データに裏付けされた行為を好むようになっているのが、いわゆる「最近の学生」なのではないかと考えました。この、共通認識であり、共通の理想像であった「虚構」の存在価値の低迷が、各世代での基準の違いとなり、時代が違うという言葉になり変わっているのではないかと考えました。

 今日のリレー日記での主張としては、「虚構」の価値が低迷して、モチベーションの低下につながってしまっているのではないか、という問題提起でしたが、この問題に対しての解決策については、今のところ考えついていません。加えて、今回は問題提起として提示しましたが、さまざまな事象に対して頭を捻り、理屈を考え、自分が正しいと思うものを信じて行動するということは、いいことでもあると思います。今後の体育会のあり方、より大きなスコープでは、今後の人類の辿る道は、どのようなものになるのでしょうか。残された1年間で、さまざまなことを経験し、より考えを深められたら、と思っております。

 自分の中でも考えがまとまりきっていない内容でしたので、考えていることが正確に伝わっているかはわかりませんが、これだけの長い文章をご精読いただきまして、本当にありがとうございました。

 自分の競技人生も終盤となり、目標地点と自分の現在地のギャップや、残された時間の少なさ、想定通りにいかない計画など、さまざまな不安要素に襲われるような日々に、研究や就職活動も相まって、苦しくも充実した日々が送れているように思います。残り少ない期間となりますが、応援の程、何卒よろしくお願いいたします。